淡島社の成り立ち(私的雑感)
この折本の地に、この淡島社に、遠路はるばる願を掛けに来た人々。数日掛けて、すがる思いで祈りに来た人々。そういう市井の人たちの精神的救いになったであろう淡島社。
自分が子供の時は、ただの遊び場所にすぎなかったこの神社が営々、先祖の時代の人々の、もちろん現在の人達にとっても救いの場であり続けていることなど何の現実味感がなかった。
その私も、大人になった今、思いを馳せる。
取り分け、女性を、婦人を祀った数少ない神社と記されている文言に触れる時、・・哀話・・哀史・・差別とかの陳腐な言葉が思い浮かぶ。
男の驕りの哀傷に浸る。女性はこの板書きを目にした時、どんな感慨が?
この碑に書かれている事を抜き書きしてみますと、江戸時代以前、和歌山市加太の淡島大明神より分祀鎮座とあります。
そして、江戸名所図会によれば相模街道大熊村より左に入りて、「織本」村にありと。
かつては、淡島街道の(随所に)、淡島に至る道しるべ(道跡)があったようです。
しかし、それは、今では消滅されたようであると、この碑には書かれていました。
(ところが、この道跡が、東方町の長谷川兼男様の庭宅で発掘され、平成12年に自費で再建された道しるべが、今、岩崎橋信号の角で見ることができます。)
これより 東 淡島路
平成12年4月吉日
復元 長谷川兼男
岩崎橋交差点の角にあります
そして最後に
寛保二年、某英至と云う人が社殿を新築し、昭和51年に道路拡張の為、社殿を(宮司、氏子により)現在のように建て替えたと。
※ ( )挿入語と、「」付は、編集側の追加です。
女性の祭神として、縁結・健康・魔除けの願が掛けられ、崇められるようになったのかの説は各資料館の諸文献で閲覧できます。
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